
ベルリンに来てもう2ヶ月になる。めちゃくちゃ速い。
季節はすっかり秋。
百田さんのボックス、モンスターと読み、日本の神話と日本人の心という本を読んだ。
とても興味深かった。
特に日本の神話、神道について。
日本以外の神話にも言及していて、世界の神話の奥深さを知ることになった。
昔から人間がどういう風に世界を捉えていたのか、知る機会になった。
神話といえばギリシャ神話と思う方も多いけど、世界には多くの神話、伝承がある。
読んでいくうちに、神道というものは自分にとって根本なんだと感じる事ができた。
ベルリンには、多くの教会があって、鐘のいい音色が聞こえることがある。
けどドイツの若者はもうほとんどが無宗教だと友人に聞いた。
アメリカ、カナダでもそうだ。
これは時代なのだろう。
何かにすがりたいときに確固たるもの、例えばキリストのような絶対唯一の神が必要になる。
何か絶対的な存在が、欲しくなる。
何も道標がないと、不安だからだ。
その気持ちがわからないでもない。
何かにすがるしかない、幻想以外何も信じることができないひどい時代においては。
日本の戦国時代にもキリスト教が広まったように。
けど神道は絶対的な神を作らず、調和ということを尊重している。
世界中の土着の宗教でも調和を尊重しているものは多い。
日本の神話ではギリシャ神話と違い、絶対的な神が現れたと思うと、それを絶対的ではなくなる何らかの作用が起きる。
絶対的なものを作るより、調和を重んじていたのだ。
ただ日本でも戦や戦争の時代にあっては絶対的なものとして天皇が利用された過去はある。
けど今の日本人がいるのは調和の精神のおかげだと思う。
現在世界中で蔓延している一神教はその役目を終えるときなのかもしれない。
いまなお、戦争や殺し合いに利用されている印象が強い。
世界には絶対的なもの一つもない。
神は絶対的なものではない。
移り変わる世界には絶対的なものはなく、だからといって不必要なものもない。
すべてがクソで、全てが尊い。
すべてをクソと思って生きていくのも、尊いと思って生きていくのも、すべてのものを平等に扱っているという点では共通している。
差をつけることが大きな間違いであり、どんな存在にもできないことだ。
伝わるように書けたかどうか不安ではあるけど、日本人の調和、悪く言うと個性や自己主張の無さは神道から来ているのだろう。
神道がいかに日本人の心に根付いているのかよく感じることができた。
先日、ドイツ人の友人からこんな指摘を受けた。
日本人は神社、教会で結婚式をあげ、葬式は仏教。
クリスマスを祝い、仏教と神道が混ざったようなお盆を習慣としている。
これは変だ。
しかもとうの本人たち(日本人)はそれを何も不思議に思ってない。
むしろそれが習慣であり、自然だと思っている。
こんな不思議な国はないだろう。
ということだった。
神道には全てに神が宿ているという考えがある。
そう考えれば、わかる気もするが、神道を知らない人には理解は難しい。
とにかく、神道はまずは受け入れてきた。
そのせいで、鎖国をして急激な変化を防いだ時代もあった。
現在、神道というものを知らない人は多いと思う。
天皇は誰でも知っているのに。
なぜ天皇が日本の象徴であるかについても知らない人は多いと思う。
それが我々のルーツであるということももちろん知らない。
親や、環境からくる教育、知らず知らずに、神道の精神を脈々と受け継いでいるなんて全く知らないだろう。
それを知るということの重要性。
知るという一歩。
考えるという一歩。
自分を知るという一歩。
海外にいると外国人に日本語を教える機会が多くある。
その時に思うのはただフレーズではなく、その根本にあるもの。
言葉とは文化だということ。
時と場合で色んな言い回し、使い回しがある。
長々と久しぶりに書いてはみたけど全くまとまっていない。
ここ数週間の経験が多すぎて、書くことがまとまらなかったのかもしれない。
今後は一つ一つ丁寧に書けるようにしていきます。